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平成25年10月11日(金)は、湯立式(三上の各字で実施)の為、午前中は御祈祷か行えませんので、午後からお越し下さいます様、お願い申し上げます

平成25年度祭礼行事を更新しました








  当神社は、古来御上神社と称し三上神社とも称した。又、三上大明神社・三上大明神・三上山大明神・三上社等と称した事が諸記録に残る。
 神体山・三上山は、標高432m「近江富士」ともよばれ、俵藤太のムカデ退治の伝説で知られる。山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られる。旧暦6月18日には山上祭が行われ、神体山信仰の姿を伝えている。
 御鎮座年代は不明だが、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神」の記事があり、社伝によると孝霊天皇6年6月18日三上山山頂に天之御影命が出現し御上祝が三上山を盤境と定めて祀った。その後養老2年(718年)3月15日に現在地に藤原不比等が勅命により榧の木で社殿を造営した。
 『延喜式』神名帳には、明神大社・月次・新嘗の官幣社として記され、早くから野州川下流域の重要な神社であった。
 境内の主要な社殿は、鎌倉時代後期、14世紀始めごろ整備されたと考えられ、本殿・拝殿・楼門をはじめ貴重な建造物が今日に残されている。
 古代から中世にかけて三上山山麓一帯は「東光寺」があったといわれ数多くの伽藍・堂舎があった。「三上古跡図」にその様子が描かれている。嘉吉元年(1441年)興福寺の末派社寺を記した『興福寺官務牒疏』には下記のように記されている。
 東光教寺  在同州野州郡三上郷 三上大寺内  僧房十九字  交衆八口
          天武天皇叡願 相続持統帝勅願也 本尊薬師仏也 元興寺道智法師開基 三上神法楽之精舎也
  妙光寺    三上大寺内   僧房九字  本尊岩本釈迦仏
  三上神    在野州郡三上郷 社僧二人 神主二人 
          養老元年丁巳年三月十五日降臨 二火二水神為日本第二忌火神 金勝寺四箇所鎮守守神也
 又、弘仁年間(810年~824年)成立とされる仏教説話集『日本霊異記』下巻24に「修行の人を妨ぐるに依りて、猴の身を得る縁」の説話がある。又、宝亀年中(769年~780年)「タガ大神」三上の神が白猿の姿となって「社の辺の堂」で修行していた大安寺の僧に、罪報により猿になりこの身を逃れたいため読経を頼む。この堂は「九間の大堂」記されるが、この史料は近江の神仏習合の文献上の初見であり、御上神社の古くからの神仏習合の様相がうかがえる。この神仏習合は明治の廃仏毀釈に至るまで続いた。
 中世の頃は度重なる戦乱により社殿が荒廃した時期もあった。明応3年(1494年)の棟札には、荒廃の有様が切々と記され、多くの人々の努力により修復がなされたことが読み取れる。
 明治31年には、本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された。大正2年には県社、大正13年には官幣中社となる



朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は臆することなく大蛇を踏付け通りすぎた。
 その晩大蛇は小男に化け、田原藤太秀郷の剛勇を褒め称え、『吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻き半巻いている大ムカデに悩まされているから助けて欲しい』と頼んだ。
 田原藤太秀郷は承諾し、瀬田の唐橋から矢を放ち、一矢は射損じた。二矢目は鏃に唾を付け放ち大ムカデを射止めた。
 竜神は大層喜び、御礼として減ることのない米俵や使っても無くならない反物や宝物を贈った。この米俵から田原藤太秀郷の名前を俵藤太と改めた。